”クリスティアン・クエンテルとリチャード・ツォーンの間にある製紙工場近くの野原”と古い書類に記述されている場所が、アドルフモーラーが会社を建設したかった場所でした。
1906年のお金でぴったり8,448ドイツマルク(約59,600アメリカドル)かかったといいます。モーラは、それから111年後、彼の機械がこれほどまで世界でもユニークで、2,000㎡という広大な土地で生産されることになるとは夢にも思わなかったでしょう。
いや、111年後よりずっと以前から、彼の会社は、競合よりも1歩進んでいました。例えば、20世紀の初頭、ほとんどの工場が蒸気で機械を動かしていた時代に、モーラはすでに装置を電動に替えていました。
後にも先にも、革新へのこだわりこそが、モーラの成功への原動力となっていました。平削り盤のためのカッターヘッド、平削り盤ブレード刃の楔の固定方法から、ブレード刃の調整装置まで、様々な特許が登録されました。
1929年、毎週40の安全カッターブロックが工場から出荷されました。
その当時、会社は木材関係に特化していましたが、創設者の死から数年後の1947年、ポーラー社は新たに印刷業界への参入を決意しました。
会社は、2人の息子であるルドルフとカールによって経営され、彼らは新しい業界にフォーカスをし、すぐに最初の電気制御式の断裁機を市場に投入しました。
拡大へ、
当時の印刷物への需要は高く、これはポーラー断裁機の売り上げを見ても明らかです。1949年、今日まで続いているポーラーとハイデルベルグの最初の契約が結ばれます。
高品質な断裁機の評判はスペシャリストの間ですぐに広まり、1954年にDRUPAが開催された際には、2,500台以上のポーラー高速断裁機がドイツ国内外に導入されました。
留まることのない技術革新が、ポーラーのマーケットリーダーとしての地位を確実なものにしていきました。DRUPAでは定期的に新技術を発表し、センセーションを巻き起こしました。
また、ポーラーはデジタライゼーションのパイオニアでもあります。
1986年から、そのコンピュカットテクノロジーは、機械を離れてのプログラムを可能にしました。1992年には、ポーラー2000システムが、当時としては初めてオンラインでデータをつねに最新なものとする完全なポストプレスのソリューションを提供しました。
また2002年には、最初の完全自動断裁システムであるPACE(ペース)によって新しい標準を打ち立てました。
そして2006年には、中国に自社工場を設立することによって、中国市場への進出を果たします。
他社と同様、ポーラーも2008年の経済危機に直面し、多くのチャレンジを乗り越えなければなりませんでしたが、2011年には、パッケージテクノロジーのDienstの買収などでポーラーは新しい顧客セグメントを獲得しました。
2015年には、会社はより強く、さらにマーケットリーダーとしての地位を確固たるものにしています。
111年記念の今年は、今日まで続く成功物語にさらに花をそえるものです。
(出典:Heidelberg News Issue 280 / 発行:2017年)
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